なかなか思い切ることができなかった鍋を、ようやく手放すことができました。
鍋ひとつを手放すのに、これほど葛藤するとは思いもしませんでしたが、そのときの感情を振り返ってみたいと思います。
日々あたりまえに使っている道具の影響力
モノと記憶はとても連動しているなと思います。(音楽、匂いなども、自分の中にある種の記憶を呼び起こしたり)
時々でも毎日でも目にする機会があるものは、自分でも気づかないうちにじわじわと内面に影響を及ぼしている気がします。
古くなった鍋への愛情と執着
古くなり機能も果たせなくなっていた鍋を持ち続けていましたが、日々目に入る場所にあるため、やはり気になります。
手放そうかと思いつつ、決心するまでに時間がかかってしまった理由には、こんなことがあげられます。
・ 20代の頃から持ち続け、とても気に入っていた鍋である
・ ちょっとレトロなカントリー風の琺瑯鍋。買った当時は一目惚れ
・ 多少がさつに扱ったりしても、けなげに働き続けてくれた鍋
・ 劣化で機能も果たせなくなり、自身の好みも少しずつ変化する
・ けれど、見ているとやはりかわいい鍋なので、他の使い道がないか模索するも見つからず
・ 古びたその鍋のコロンとした佇まいに、なんだか気持ちがきゅんとしてしまう
・ 考えるほどわからなくなり、ずっとそのままになっていた
こういうループにはまってしまうと、なかなか一筋縄ではいかず。ときめきとか判断力とか、そういうものが自分の中でうまく機能しなくなってしまうのかもしれません。
とはいえ、この先もずっと保留を続けていくのも違うなと思い、あらためて向き合ってみることにしました。
長年お世話になってきた鍋を前にして、「愛着」と「執着」というふたつの言葉が何度も頭をかすめ、感情がぐるぐるして行ったり来たり。
大きさもそれなりにあるし、料理には使えなくなっても(焦げやキズで傷みも進んでしまっていたので)野菜入れなど入れ物としてかわいいかもしれないと、あれこれ使えるアイデアを思い浮かべたけれど、どこかしっくりこない..。
そして、いつまでも昔のまま使い続けようとすることへの違和感も、大きくなりはじめました。
長年使ってきたことへの愛着、もう本来の料理機能を果たせなくなっていたのに、どうにか使い続けようとした執着。
それらをきちんと自覚できたとき、昨年の片づけ祭りの最中には出せなかった答えが、ようやく出せたように思いました。きっと、今がそのタイミングだなと。
人生でよい時も大変な時も、この鍋でよくスープを作ったな、などと少し感傷にふけりつつも。最終的には、明るい気持ちでお礼を言って手放すことができました。
新陳代謝があってこそ身軽になれる
以前購入したのに、いまいち活用しきれていなかった、まだぴかぴかのステンレス鍋。今後はこちらの出番を増やしていこうと思います。
(手放した琺瑯鍋とはサイズもタイプも異なり、ドイツの製品らしく質実剛健といった頼もしい佇まい。こちらもとても長持ちしてくれそう)
大きな片づけ祭りが終わっても、今後もこんなふうにモノの新旧の入れ替えは出てくると思います。そんな場面になるたびに、一筋縄ではいかない「愛着」と「執着」について、またあれこれ思いを巡らせることになるのでしょうか..。
「第2回目の片づけ祭り」が終了、今思うこと(2015年9月)モノと自分の記憶に向き合うことは、うっかりするとドツボにはまって辛い気持ちになることもありますが、客観的になれたりその都度面白い発見もあったりします。
こうやってなんだかんだと一生、「モノと感情の片づけ」が繰り返されることで、人は身軽になっていけるのかもしれませんね。鍋を手放しつつそんなことを思いました。







